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  • 執筆者の写真朝野裕一

生きている以上身体は動く

 先日、コンビニに立ち寄っての帰りに、上半身をほぼ90度に曲げて一歩

一歩頼りなく歩くおばあさんを見かけました。


杖をつきながら、地面しか見えない状態で、一歩を踏み出すのにとても

苦労している様を見て、大変だなぁと思うと同時に、果たしていつから

こういう状態に陥ったのだろうと考えていました。どんな仕事や生活を

していたのだろう?どこかの時点で身体の動きをもっと意識していれば、

防げたのではないか?

少なくともここまで苦労する必要はなかったのでは?などなど。

大きなお世話のような気もしますが、いたたまれない気持ちと合わせて、

これらのことをおばあさんの姿を追うなかで感じていました。


どうしてそんなことを感じたかといえば、自分の職業的な専門性と関係

があります。わたしは、理学療法士という資格を持ち、30年間病院に勤

めてから、今では「エクササイズ・ナビゲーター」と称して、

ヒトの身体の動きに関する様々な情報紹介やアドバイスなどを行う仕事

を立ち上げています。


理学療法というと何それ?と思う人はさすがに少なくなりました。

リハビリテーション分野の専門職の一つ、という認識も世間には広がっ

ていると思います。

理学療法は、そもそも欧米で発達した職業で、

英語では physical therapy と呼びます。physicalには身体的なという

意味が含まれています。一方、therapyには治療、療法という意味が

ありますが、個人的には単に治療というだけではなく、そこに手当て的

な相手に寄り添う意味合いが込められているのではないかと

感じています。つまりphysical therapyとは身体の(動きに関する)

セラピーとなります。


 さて、ヒトが生きている以上何らかの身体の動きをともなうことは

明らかです。もしも身体に麻痺があったり、痛みがあって動けなかった

りしても、心臓は動いていますし、呼吸をするために肋骨や横隔膜など

は動いています。人工呼吸器につながっていると、それらは外側から

無理に動かされているのですが、それでも動いていることに違いは

ありません。


ましてや、いわゆる健常者と呼ばれている人にとっては、日々の生活

自体が身体の動きとともにあります。特別スポーツを愛好していなく

ても、朝は床(とこ)から起き上がる、洗面所まで歩く、

立って歯を磨く、顔を洗う、服を着る、2階以上に住んでいれば階段を

降りるかもしれません。バス停まで歩く、勤め人ならば職場に遅刻

しそうになれば走ることもあるでしょう。ある意味毎日が運動の連続です。


わたしは中くらいの規模の都市に住んでいますが、大都会ほど交通の便

が良くないので、ついつい車での移動が多くなります。歩くことが意外

と少ないです。大都会にいる方が駅から駅まで乗り継ぐだけでも、

かなりの距離を歩きます。過去に東京に行った時などは、普段以上に

歩いたために脚が筋肉痛になったことがありました。ですから、都会

ほど歩く距離が多く、かえって健康的かもしれないと思ったくらいです。

今でこそ、ステイホーム・リモートワークなどと言って、自宅で椅子に

座ったままの仕事が推奨されていますが、1時間以上座りっぱなしで

いることは健康上問題があると証明されています。そういう意味では、

通勤で人が減らないことは、もしかしたら必ずしも悪いことではない

のかもしれません。


 話を日常生活における身体の動きに戻します。もし、普通に生活して

いるだけでも運動の連続であるというならば、身体の動きは衰えないの

ではないか?と思えます。もちろん、加齢とともに誰しも身体の動きは

衰えていきます。そういう意味では、衰えを防ぎきることはできません。

むしろ、運動をしなければ衰えのスピードはさらに早まる、

と捉えた方がいいかもしれません。そして、衰えの速度を少しでも遅く

するには、運動が欠かせません。


しかし、ここで問題にしたいのは別のことです。それは、身体の動きの

定型化という問題です。子どもは運動の得手不得手が意識される

以前には、まわりの環境下で自分の身体を意味もなく(大人にとっては

意味のないように見える)動かすことで、脳を発達させていきます。

同時に周囲の状況との関係で、身体の運動感覚を発達させていきます。


ですから、それはもう様々な動きをトライしているわけです。一方で

大人になるとどうでしょうか?まわりのことを気にせずに、

突然いろいろな動きをし始めたら?奇異な目で見られるかもしれません。

大人には、そのような社会的な制限があります。


それとともに、生活のパターン化が生じてきます。一定の生活パターン

というものが自然と身についてきます。そうすると、必然的に身体の動き

にも一定のパターンが身についてきます。身体を動かす範囲や方向、程度

などが限定されてきます。結果として、ある方向には動きづらくなったり、

必要な力を発揮しにくくなったりということが生じてきます。

ヒトは、多くの作業を自分の身体の正面で、手を使って行います。


そうすると、自然に身体は前のめり状態になることが多くなります。

後ろ手で、反り返って、あるいは身体をねじったままで何かをすることは、

日常生活場面ではほとんどないでしょう。そのため、身体をひねったり、

反り返らせたりする動きが制限されてきます。気がついたら、すっかり

身体の動きが硬くなっていた、という具合です。

最近、車のバックをしようとすると首が痛くて、などは上半身のねじれが

少なくなってきた証拠です。


考えてみれば、スポーツを楽しむ、観光地に足を運ぶ、山に登る、

コンサートに行って踊りまくる、遊園地で遊ぶ、お祭りに参加する、

これらは非日常的な場面で、いつもとは違う身体の動きを必要とします。

いまでは不要不急の部類に入れられているのかもしれませんが、

少なくとも身体の健康にとっては不急ではあっても、不要ではないでしょう。

定型化・パターン化した身体の動きからの脱却という意味では、とても重要な

要素ではないかと思います。


 最初に挙げたおばあさんの例に戻ってみましょう。

きっと、昔は農作業か何かをして、腰を曲げたままの状態が多かったのでは

ないだろうか?と思います。作業が終われば腰が痛くて伸ばす動作もしていた

でしょう。でも曲げる時間の方が圧倒的にまさっていた。


そして都合の悪いことに、身体を曲げたままのほうが、作業もしやすかった。

そういう日々の生活の蓄積が90度まで曲がってしまう身体になる原因だった

かもしれません。ある日突然90度に曲がってしまうということは考えられません。

どこかで、意識的に反り返る運動を日常的に取り入れることができていれば、

あそこまでの姿勢変化はなかったかもしれません。あくまで仮定の話ですが、

そんなことを感じないわけにはいきませんでした。


 たまたま見かけたおばあさんの姿勢に、そんなことを考えてしまうのは

最初に書いたように、職業的な専門性のためです。そのおかげで、身体の動き

に興味を持って、いろいろな人の動きに目を向けることができ、退屈しない日々

を送れています。


ただし、他人(ひと)の動きに目を向けることの方が多くなってしまい、

自分の身体がおろそかになりがちです。これからは、そうならぬよう注意

していこうと思っています。みなさまも普段の生活で、もう少し自分自身の

身体の動きに注意を向けて生活し、時には非日常的な身体の動きを体験して、

定型化した動きから脱却することを強くお勧めします。bit.ly/planetsclub

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